「アカデミックライティング入門」  竹澤祐丈(経済学部・准教授)

誤読は読者だけの責任か?

 一般的に、一昔前の日本の多くの大学では、書籍の正確な読解が厳しく訓練されていたのに比べると、読解されない情報発信の技術の取得には、相対的に熱心 ではなかったように思われます。つまり誤読が生じた場合、読者側の読みの甘さやまずさが必ず指摘されるのに対して、誤読を誘発する文章の書き方が問題にさ れることは余り多くありませんでした。しかし「読み手だけが悪いのか」という納得できない違和感が残りました。

ところが留学準備のために学外で 英語のライティング教育を受けた時に分かったのです。やはり書き手も努力が必要なんだと。つまり、情報の受け手と送り手との対話を成り立たせる一定の型が あり、その型の十分な取得を前提に好みや技量に応じた味付けを加えるというコミュニケーション観を知ったのです。このときのショックのような感動は今でも はっきりと思い出します。


より良い情報発信の型とは?

 それでは「対話を成り立たせる情報発信の型」とは何なのでしょうか。簡単に言えば、それは、情報の受け手が誰なのかを十分意識すること、その受け手の前 提知識に応じた情報の具体化、そして予め想定可能な誤読が起きない論理構造を持つ型のことです。つまり特定の分野や特定の進路を希望する学生だけが要求さ れる特殊な型ではありません。そういう意味では、研究者を志望する学生さんだけでなく、社会人として活躍しようとする人にも必要なスキルだと言えましょ う。


教育機関における剽窃問題

 さてその後、母校の教壇に立つようになりましたが、効果的な情報発信法の取得を目的とするライティング教育を実践したいという気持ちから、この授業の企画を練っていました。
  ところが実際にこの授業を始めた直接の動機は、レポート試験における剽窃行為によって処罰される学生の存在でした。剽窃と言っても、その程度や動機は様々 です。もちろん単位のために自覚的に剽窃を行う者には厳罰が相応しいですが、結果的に剽窃と見做されるケース、例えば、友人とレポート執筆の準備作業を共 同しておこない、その共同作業の結果として部分的に同一の文章を含むレポートを提出した場合も(不注意のそしりは免れないでしょうが)、同様に処罰される べきなのでしょうか。
  このとき私は、まず不注意による剽窃を減らすべきではないかと考えました。そのためには、事後的な厳罰ではなく、剽窃とは 何でありどのようにしたら避けられるか、いかに剽窃行為は割に合わないのかなどを一緒に考えていくような、予防的・啓蒙的なライティング教育が不可欠だと 思ったのです。
  そんなこんなで、当初の目的の「より良い情報発信の型の取得」に加えて、「剽窃防止の啓蒙」というふたつを課題とするこの授業が始まりました。


実際の授業内容

 実際の授業は、剽窃の定義や厳罰が課される理由などを欧米の事例などを広く紹介しながら理論的に学ぶプロセスと、コミュニケーションを意識した型を実際 に使ってみるプロセスから構成されています。そして後者のためには、2週間ごとに授業の復習を兼ねた課題の提出と、コメントを付けての返却をおこないま す。これは学生さんにも、採点する側にもちょっとハードですが、毎年ほとんどの受講生は非常に良くがんばっています。


真のライティング教育へ向けて

 もちろん型だけを学んでも、その型に乗せる内容の研鑽がなければ何もなりません。その意味では、他の科目の専門的学習と組み合わさって、つまり他の科目 の学習内容を具体的素材にしながら効果的なコミュニケーションの型に乗せてレポートや卒業論文を実際に書き上げることによって、本当の意味でのライティン グ教育が成り立つといえます。この授業が、学習意欲全般の向上と、コミュニケーションが成立したときの喜びを多くの学生さんに実感してもらえるきっかけに なれば幸いです。